分業をまたいでいろんな人から教えてもらうことができる。

高岡ではたらかないか?

金工作家・尾崎迅さんがたどりついた、高岡という産地の、人と自然とものづくりの魂

原型制作。粘土に手を加える

バフ研磨機に取り付ける様々な布の円盤や工具たち

工房「uwaya」の入り口

工房の2階はギャラリースペースになっている

尾崎さん自作のクライミングウォール

山へのアクセスの良さはローカルならでは。写真は龍王岳

もっと造形的な仕事がしたい

高岡の駅からほど近く、古い電気屋やコーヒーショップが並ぶ商店街を曲がった小道の奥、に、金工作家・尾崎迅さんの工房「uwaya」があります。

「実家は大阪の豊能という、いわゆるベッドタウンにあります。山を切り開いた住宅地なんで、商店街もないし、コンビニもない。両親が転勤族だったこともあって、大阪の中でも転々としたし、仙台にも住んでいました。だから大阪に実家があります、というくらいで、大阪が地元という感覚はあんまりないんです。」

一語一語とつとつと話す尾崎さんは、いわゆる大阪の人というイメージとは少しかけ離れた物静かな雰囲気をまとっています。

尾崎さんは2005年、金沢美術工芸大学の工芸科を卒業しました。「大学時代は特に何も考えてなくて、卒業後の進路をどうしたらいいか、わからなかったですね。作家活動をしようにも何をどうしていいのかわからなかったし、就職するというイメージも湧かなかったんです。」

今から15年ほど前のこと。今でこそ地域の工芸やものづくりが注目されるようになっているものの、当時は「工芸作家なんて、一部の限られた人がなるもの」。インターネットもそれほど発達しておらず、作品の販売方法や情報発信の形も限られ、作家を抱えてやっていけるギャラリーも少なく、作家の活動範囲はかなり限定的だったそうです。

「同級生でも、教職をとって先生になるか、とりあえず大学院に進むという人が多かったです。僕も、よくわからないまま大学院に進学しました。でも、大学院の途中で怪我をして作品を作れなくなり、休学して大阪に戻りました。そこで自転車のフレームビルダーの仕事を手伝いはじめ、『春からうちに来るなら働かせてやるぞ』と言われて、それをきっかけに院は中退したんです。でも結局、一年で追い出されました。」

大学院生活も仕事も失った尾崎さんは、実家に戻りアルバイトで食いつなぎながら、就職活動をします。しかし、大規模な工場が多い大阪でものづくりの仕事といえば、「手仕事」とはかけ離れた工場のライン工の仕事ばかり。

「自転車屋を離れた頃、もっと造形的な仕事をしたいと思いはじめてたんです。だから、工場のライン工みたいな仕事はしたくなかった。そんな時、大学時代からの知り合いで、高岡で鋳物の原型師として活動をしている恩師から、『急な仕事が入ったから、1ヶ月住み込みで手伝ってくれないか』って連絡があって。高岡に行くことになったんです。」

分業をまたいで、社内外の職人から技術を学ぶ

2009年の夏の1ヶ月、恩師からの呼びかけで高岡を訪れた尾崎さんは、川沿いにある工房に住み込み、日夜作業に励むという刺激的な日々を過ごし、結局そのまま高岡の鋳造メーカーへ就職することになります。

「僕はもともと『分業』という仕組みに違和感をもっていたんです。工場で、分業のいちセクションだけを担うってのは、自分の考えるものづくりとは違うという印象を持っていた。工場で働くとは考えてなかったし、それは当時の美大生の間で全体的な風潮だった気もします。同級生にも工場に就職する人は一人もいなかったです。」

銅器産業で発展してきた高岡は、労働効率や専門的な技術力を高めるため、行程ごとに細かく分業する生産体制が古くから主流となっています。「原型師」が型を作り、「鋳物師」が土で鋳型をつくり、溶けた金属を流す。その後も「研磨」「仕上げ」「着色」「梱包」などの様々な行程が分業されています。だからこそ、高度が技術が磨かれ、品質の良い品が作られるようになるのですが、分業のいちセクションを担う技術者の無名性は高く、出来上がったものだけを見ると個々の技術の鋭さは伝わりづらい。分業制を中心にしたが問題になっていますが、高岡も例外ではありませんでした。

「高岡ではいろんな職人さんが高齢になって、このままでは技術が継承されなくなるというようなタイミングだったんです。だから恩師たちに『今だったら分業をまたいで、いろんな人に技術を教えてもらうという仕事のやり方ができる。高岡で働かないか』って誘われて、その言葉に惹かれました。」

恩師たちがつないでくれた就職先である高岡の老舗鋳造メーカーは、担当するライン作業とは別に、週に数回、社内外の職人に付いて横断的に技術を学ぶ、いわば「尾崎さん仕様」の働き方を用意してくれたそう。

「月、水、金の午後は社外の職人さんのところについて研磨を学ぶという感じ。僕みたいな働き方をしている人はそれまでいなかったみたいです。作品づくりのために工場も好きに使っていいと言われていたし、本当にのびのびとやらせてもらい、感謝しています。」

技術の修練

「めっちゃかっこいい人なんです。」

鋳造メーカーで勤務しながら、週に3回通ったという研磨職人の師匠のことをたずねると、尾崎さんは嬉しそうに、こう答えてくれました。

「組織には属していなくて、一人独立して仕事をしている人だったんですけど、みんな、困ったらとりあえずその人のところに行く、駆け込み寺的な人でした。『あの人のところに持って行ったら何でも間違いないわ』って感じ。仕事の質も高くて、僕らが会社でやってる研磨とは一味もふた味も違う製品を扱っていました。でも、僕が工房に習いに行くと、『おう、きたか』って言って、まずコーヒー飲んで、だいたい2、3時間しゃべってるんです。それから『よし、ちょっとするか』って30分くらい機械を触るくらい。お客さんが来たらすぐ『ちょっとコーヒー飲もう』っていうゆるさでした。いつでも僕を対等に扱ってくれて、『俺らは仲間やからな』ってよく言ってくれてましたね。あの人と出会ってなかったら、僕の働き方も暮らし方も全然違うものになったと思います。」

師匠と過ごした時間を心から慈しむように、尾崎さんは笑います。今では、分業への考え方も、ずいぶんと変わってきたそうです。

「分業しているからこその技術の修練というのは、長くやってくるとすごくよくわかるんです。だから今は、分業について全然否定的には思わないし、作品づくりでも一部を外注に出すことは、よくあります。高岡で家業を継いで仕事している人たちは、 到底僕なんかが真似できない納期での仕事を当たり前に受けたり、血で仕事してるみたいなところがあります。その凄みを見ると『この人らには、追いつかれへんわ』と、たまげるようなこともよくありますね。」

もう県外に行くとかってことは考えてないですね

尾崎さんは鋳造メーカーに4年勤めたのちに、独立。もともとは会社の仕事と併用するつもりで工房を借り、プロダクトデザイン、鉄作家、鋳物作家の仲間たちと4人でスペースをシェアしていたものの、工房に手を入れているうち、「こんな立派な工房と仕事場は併用できん」と考えて退社。独立した当初は、前職の会社から仕事を請けながら、作品づくりを続けてきたそうです。

「そもそもあんまり何も考えてないんです。独立するときも、ちゃんと計算とかしてるのかって周りに言われたりしたけど、そんなんする必要あるか?って感じで。」

尾崎さんはそう言って笑います。

工房にある設備は、廃業した鋳造所からもらい受けたものが多いというのも、産地ならではです。

「今も、なんで僕、ご飯食べられてるんやろうって思いますね。でも、高岡での暮らしは、節約しようと思えば財布を開かなくてもいい日もありますからね。」

大人になってから大阪から高岡に移り住むことにも抵抗はありませんでした。

「金沢の大学に進学していたので、知っている場所が近くにあるっていう安心感はありました。金沢にも近いしええんちゃうかなと思って。銅器産業の仕事ができるところに住むしかないかなっていうのは、はっきりしてるんで。僕自身、もう県外に行くとかってことは考えてないですね。」

ところで尾崎さんは、クライミング好きが高じてクライミングウォールを自ら作ってしまった人で、工房の3階には、現在もどんどん拡張しているという自作の壁が広がっています。自作と言っても、既存のホールドを取り付けたのかと思いきや、ホールドも自作。「型に流し込むだけだから簡単ですよ」と楽しそうに話し、尾崎さんはこう付け加えます。

「僕、なんでも自分で作れると思ってて。」

尾崎さんのプロジェクトについては、次回へ続く。

尾崎 迅 Hayate Ozaki

1982年生まれ。金工作家。2005年、金沢美術工芸大学工芸科鋳物専攻コース卒業。2009年より高岡の鋳造メーカーに勤務し制作を開始。2014年に独立。作品制作と研磨職人を両立するほか、デザイナーとしても活動。銅合金のもつ抗菌作用を生かした花器や素材の永年性に着目した作品を制作している。