「幼少の頃から田舎で米を作ったりセミを捕まえたり、そんな暮らしが羨ましかった」という加納亮介さんは千葉県千葉市生まれ。東京工業大学で都市計画を専攻し、大学院進学後修士課程の1年目からは、広島県の尾道や中国の上海など、実際の現場で地域の人々とともにまちづくりのプロジェクトに関わるようになります。高岡との出会いもそんななか。当時、古民家の活用で高岡に関係していた恩師から「面白いことが起きそうだぞ。一度見に来い」と誘われ訪れたのがはじまりでした。その後、東京から高岡へ通うようになり、気づけば就職先からの内定を断り、大学院生でありながら2014年5月にオープンしたゲストハウス「ほんまちの家」の管理人になって5年。今に至ります。
■リアルな地域を知ってもらって住んでもらうほうが、楽しい
「高岡って、まちなかにはチェーン店がすこぶる少ないんです。 郊外にはロードサイド店や大資本が入っていますけど、まちの中だけでいうと全くないに等しい。それだけ地元の人たちが自分たちでお店を開いたり、場所を作ったりしてる。その力を強く感じたのが初感でしたね。ああ、尾道に似てるなって思ったんです。それに高岡の場合は戦災にも遭っていないので、明治、大正、昭和初期の建物がごろごろ残っていて。こんなに残ってるんだ!って当時は驚きました。」
高岡の第一印象はと聞くと、都市計画専攻ならではの視点と、各地を知る旅の人ならではの視点を組みあわせて、楽しそうに加納さんはこう答えてくれました。
「寂れていると感じなかったか」という質問には、「尾道の経験があったからか、地方だから寂れているのは当たり前」と笑います。
それにしても、いくら初感で魅力を感じたとはいえ、一度は就職活動をし雑誌社に進路が決まっていた身。なぜ安定した道を進まずに、高岡に住まうことになったのでしょう。
「正直なところ、ノリで誘いに乗っちゃった感じです(笑)。先生に言われたんです。”博士課程に進んだらいいんじゃないか”って。高岡でのプロジェクトは、大学院の2年生の時にはじまったばかり。まだ高岡に関わって1年しか経っていなかったので、”もう少し現場を見てはどうか”と提案されたことは、大きかったです。」
一方、地域に入ることによって「メディアの限界」に触れたことも、一つの要因だったと言います。
「僕は、雑誌を通じて地方の魅力を伝えることが、地方のためになると思って志望したんです。けれども内定をもらった後、旅行やプロジェクトを通じて知り合った地方の人たちに、地方を取り上げるメディアについて話を聞く機会がありました。その方たちは取材される側だったんですが、”メディアは地方の良い面や特定の場所しか取り上げないよね”とおっしゃっていて。話を聞くにつれて、メディアがリアルな地方を描くのは難しいのかもしれないな、と想像したんです。」
そして加納さんは自問します。「自分は、その仕事をやりたいのか?」と。
「地方暮らしには良い面も、悪い面もあります。でもやっぱりリアルな地方を知ってもらって、満足してから住んでもらうほうが楽しいと思ったんです。それならば、実際に自分が地方に住んでみて、人を呼んだほうがいいなと。メディアに比べて僕のアプローチが心に刺さる人の数は少ないかもしれない。けれど、それが自分のやりたいことなんじゃないかって思うようになったんです。」
■まず、まちがあるんじゃなくて、自分がどういう暮らしをしたいか
そして2014年、大学に通学しながら高岡での生活を決めた加納さん。「単に住むだけではおもしろくない」と、ゲストハウス「ほんまちの家」の管理運営を担いながら、積極的にまちや人との関係を築いていきました。
「高岡のまちには、豆腐屋さんがあったり、八百屋さんや魚屋さん、肉屋さんも自転車屋さんもあります。店のみなさんと話をすると、本当におもしろい話が聞けたりするんです。僕はそれが高岡らしい魅力だなと感じていて。だから、観光客の方と一緒にまちを歩くときは、そういった高岡らしいところを紹介したりしています。」
さらに、「歴史あるまちの雰囲気を受け継ぎたい」との思いから手伝いをつづける納涼祭、「地域をつなぐ場をつくりたい」と企画したほんまちの家でのイベントなど、加納さんは、いちゲストハウスの管理人にとどまることなく活動をつづけてきました。けれどもここ数年は、「徐々に関わり方がシフトしている」と言います。
「移住したなりは、まちをよくしよう、移住者を増やそうと思って活動してきました。けれども多くの人たちが東京に出ていってしまう中で、ここで生まれた人が、ここに戻ってきたいと思うことが大事なんじゃないかと考えるようになったんです。それって、親世代が生き生きしていたり、自分の故郷はおもしろそうだって思ってもらえることなのかなって。だから、僕自身が企画してイベントをすることは減りました。ここ数年は、逆に、住んでいる人たちの声を拾い上げて、それをいかに実現できるかに注力しています。」
まちへの関わり方がシフトするのと同時に、加納さん自身の「自分のしたい暮らし」への考え方にも、変化が訪れていると言います。
「僕は都市計画を専攻したり、まちづくりに興味があった分、どうしても最初に”まち”を中心に据えてしまう傾向があるんです。まちがどうあって欲しいかということありきで、自分の暮らしを選択しがちなんです。でも最近、それってちょっと違うのかなって思いはじめました。」
例えば、地域の商店街に新しく店を開く人がいる。その人は、店を開きたいから店を開くのであって、地域活性とか、まちをよくしたいとかを考えて開業するわけではない。店があることで結果としてまちが盛り上がったら良い。「そういうスタンスが、本来、人の暮らしのあるべき姿なんじゃないかって考えるようになったんです」と加納さんは続けます。
「どんな仕事をして、どういう暮らしをしたいかを描いて、その結果としてどういうまちになってほしいという順番で考えないと、いつまでも自分の人生は決められないのかなと思うようになったんです。」
■自分らしい暮らしを探す旅
加納さんは、2019年からの1年間、博士論文を書くために一旦東京に帰ることに決めたと言います。卒業後も高岡に住むか、という問いには「今は、まだわからない」と、素直な心持ちを伝えてくれました。
「僕みたいに回遊魚的に移動する人が、高岡には多く訪れます。地元の人たちからすると、そういう人がいるのは嬉しいんだけど、結局は住む覚悟がないんだと見えることもあると思います。僕は、そう感じられてしまっては寂しい。かといって今はまだ、その決心に至っていないというのが、正直なところです。一度離れてみて、しっかり高岡に住みたいと思うかもしれないし、もしかしたら別の場所に暮らしながら高岡と関わる形をとるかもしれない。これからの1年は、まず自分自身がどんな暮らしをしたいのか、それを考える時間になるのかなと思うんです。」
加納さんは今、高岡というまちを起点に、自分らしい暮らしを探す旅を歩みはじめています。
まちから、自分へ。その視点の移り変わりは、加納さんのなかで、まちづくりの対象としての”漠然とした存在”だった高岡が、”自分の居場所”として形を持ちはじめたことを意味しているのかもしれません。
「ゼロか百かではなく、柔らかく、地域と関わる形やバランスを探っていきたい」と加納さん。けれども、「高岡にまったく関わらなくなることは?」の問いに「ないですね」。そう笑顔で返す加納さんの言葉には、揺るぎないものが溢れていました。
※肩書は取材当時のものです